溺れたら浮かべ、そして泳げ

私は唐津の浜辺に立つ校舎で高校時代を過ごした。あれは高校三年の頃だったか、「サルを見にいこう」と、友達と三人で島へ泳いで行くことにした。ちょうど真夏。海に浸かると浅瀬は心地よい水温で、平泳ぎで仲良く横一線になりながら一キロ先に浮かぶ島をめざした。
 ところが、途中で状況が変わった。半分ほど進んだところで急に水温が冷たくなり、強風のために身体が横に流され、前に進めなくなった。おまけに海水を飲み込み、右足のふくらはぎまでつってきた。立ち上がろうにも底がない。
 「どうした?」
 「つった! 足がつった!」
 「なーんだ。魚をつったんじゃないのか」
 最初はジョークを言っていた友達も、強風におびえたのか、私を見捨てるように先に泳いでいった。どうにかしようと海中にもぐってふくらはぎをマッサージしたが治らない。もう体力がもたないと、一瞬、脳裏に死の恐怖を感じた。けいれんの痛みに耐えながらどうにか島にたどり着くと、体力を回復させようと、海を眺めながら波が静まるのを待った。
 なぜ、サルなんかに興味をもったのかはわからない。帰りの不安を口にすると、友達の一人が言った。
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ、溺れても人間はそう簡単には死なない」
 しばらくして体力を回復させて、何とか帰り着いたが、あのとき死んでいたら、納骨堂のお位牌となり、とうに五十回忌を迎えていたことだろう。海難守護をされる八大龍王さまをお祀りする寺としての面目もつぶすところであった。

 海で溺れることがあるように、人生にも何かに溺れることがある。
 ちなみに、「人間はそう簡単には死なない」と語った友達はその後、色に溺れ、夫人をさんざん泣かせたあげく、がんで失った。一時はひどく落ち込んでいたが、周りの励ましで、今はどうにか立ち直っている。
 もう一人の友達は、金に溺れた。聞けばペーパー商法で出資者をだまし、警察に逮捕されたという。調子に乗りやすい性格ではあったが、人をだますようなあくどい人間ではなかった。お互いに将来の夢を語り合い、大学に入ったら再会しようと誓い合ったが、その約束を果たせないまま今に至っている。所用で彼の実家のそばを通ったので訪ねてみたが留守だった。聞くところによると、実家に寄り付くこともなく、母親が一人でひっそりと暮らしているらしい。
 かつて友情を育んだ仲なので、批評家のようなことを言うつもりはないが、どこでどう変わってしまったのか、つくづく人生は諸行無常だと思う。

 若いときはエネルギーをたぎらせて夢に向かう。真新しいスーツに身を包んだ新入社員の姿を見ると微笑ましい気持ちにさせられる。しかし、そのうちに世の中の風向きが変わったり、人間関係の波が立ったりして、あらぬ方向へ流されていくこともある。先々の運命など誰もわからないのである。今でも時々、あの思い出の島を眺めるとき、「人生を甘く考えたらいかん」という気持ちが湧き立つ。

 緊張して集中しているとき、自然に人間は成長するものである。仕事を早く覚えようとしている間は、ぐんぐん伸びる。しかし、慣れて仕事が楽になると自分の中に隙ができる。給料が上がれば、「これで結婚もできる」と希望も出てくるが、いつしか仕事をこなすだけ、家族を養うだけの機械や道具のようになってしまうこともある。あるいは仕事を終えて電車に乗り、最寄りの駅に着いて家路につくとき、疲れた足取りで同じ道、同じ角を曲がりながら、どこか寂しい気持ちになる人もいるだろう。
 「こうして昨日も今日も、明日も明後日も、同じ道を帰るのだ。いつまでこれを繰り返していくのだろうか」
 このように虚無的な心境になっていくと、そのため息が「ちょっと、帰りに一杯」という気持ちを起こし、快楽の世界へとはまっていくこともあり得ない話ではない。単調な生活のわびしさから発展していくゆるんだ気持ちなど、自分ではなかなか気づかないものである。
 現代の〝遊び〟は、昔に比べるとたくさんの種類があり、選択肢も広がっている。それは一見すると社会の向上、進歩のように見えるが、じつはストレスやわびしさが増えたからではないのか。だが、遊びで心は救われない。いったい、人間は何を求めて生きているのだろう。

 次のような釈尊の言葉がある。

 『弓師は能く角を調え、水人は能く船をととのふ。巧匠はその木を調え、智者は自らその身を調ふものなり』

 この聖句は日ごろ、釈尊が好んで使われていた言葉とされているが、端的に釈尊のお考えを知ることができる。釈尊の故郷であるサキャ国には弓の名人が多かったと伝えられていることから、弓師が弓をつくる姿や矢先の角を研ぐ光景が身近だったのだろう。また、この国にはヒマラヤ山脈から流れ出る川のほとりに水夫や船頭が多く暮らしていたようである。釈尊はそこで、船大工の見事な腕前や、船乗りの巧みな技を見て感心されたにちがいない。
 しかし、この聖句はお弟子さんに伝えられた言葉であることから、釈尊が言おうとされているのは、「智者は自らその身を調ふものなり」という一節にあるようである。お弟子さんの中には、修行中と雑務のときの言動が異なる人がいたのだろう。よって、釈尊は常に身を調える人のことを「智者」という言葉で教えられているのである。
 これを万人に通じる示唆として受け止めつつ、私たちの日常に目を転じると、ふつう人間は、仕事は仕事、自分は自分として使い分けていることが多い。じつは、額に汗して働き、能力を伸ばすことができても、そのうまさ、巧みさだけが重要なのではない。仕事そのもの、ひいては人生そのものが自分を調えることにつながらねば意味はない、ということを説こうとされているのではないか。
 もちろん、働かなければ人間は食べていけない。生活のため、家族を養うために金を稼ぐのは正しい。とは言っても、働くということは給料のためだけではない。それでは月給運搬人にすぎないのである。すなわち、釈尊はプロフェッショナルの素晴らしさを讃えながらも、生きる意味について示唆されているのだ。仕事を通して自分を高めていくところに生きる意味があることを言おうとしておられるようである。

 新型コロナウイルスの感染リスクに直面しながら、仕事をしてくださる医療従事者の皆さんがいる。多くの人が患者を助けたいと日々最前線に立ち続けている。金のためだけなら、危険を冒してまでそんな仕事はしないだろう。一日も早く回復させ、家族のもとに帰してあげたいと思う気持ち。それこそが仕事と自分が一枚岩になった姿であり、この「一枚岩」というのが「智者」なのだ。彼らは生きること、プロとしての心の軸をもっているのである。
 物事の正しい見方、考え方が自分の運命も死後の世界の方向も決める。死んだときに残るのは「心」だけなのだ。命を懸けて働いた仕事に対して生まれる誇りが、そのまま人生の意味につながる生き方をしたいという気持ちを失ったら、虚しい人生で終わってしまうだろう。わびしさの捕虜となってしまい、道ならぬ方向に流され、後悔の人生となることもある。私は死後の世界を踏まえた生き方をしてほしいと願っている。みんながそれぞれ頭上に宝冠をかぶってあの世に凱旋してほしいと願っている。

 『弓師は能く角を調え、水人は能く船をととのふ。巧匠はその木を調え、智者は自らその身を調ふものなり』

 この聖句を深く味わうとき、私は日ごろの生き方を自分に問い直すことがある。死ぬまで「ホンモノ」にはなれないかもしれないが、この一節からは仏教の精神というか、本当の信仰というか、いわば釈尊の引き締まった宗教的な気持ちを感じ取ることができる。

 ところで「人間はそう簡単には死なない」と言った友達は、東京で優秀な証券マンとして実績を上げ、高給取りになった。しかし、人間として大切なことを見失いながら金を集め続けることに意味を感じなくなった。夫人を病気で失った後、会社を辞めて帰郷し、バラを育て始めた。バラが芽を出し、花実をつける。一日一日、成長していくバラ。自分で育てたバラを仏壇に供え、贖罪の道を歩んだ。夫人はバラの花がとても好きだったそうだ。数年前、脳梗塞で倒れた彼は、そのバラづくりも卒業して市営住宅に移り住み、今では本を読んだり、通学路で小学生たちの登下校指導をしながら静かに暮らしている。かつての億ション(超高級マンション)生活からすると雲泥の差だが、それもよくある人生模様のひとつにすぎない。

 そんな彼が、夫人の遺影を見ながら吐露したことがあった。
 「オレは女に溺れてこいつを泣かせてしまったが、その分、いつも自分を責め続け、心が安まることはなかった。人間は危うい。危ういけれども、馬鹿なことも経験してみなければわからない。こいつが死んでオレは浮かび上がった」
 彼の涙を見て私は答えた。
 「誰でも溺れ死ぬのは御免だと必死に対岸へ向かって泳ごうとする。でもそれは実際に溺れたときのことで、心の波はそう簡単に静まるものではない。けれども、君は大切なことに気づいた。奥さんは君にそれを気づかせるために遣わされた天女だったのかもしれないね」
 すると彼は次のように続けた。
 「ところで、周りや行政がオレに施設へ入るよう勧めてくる。市営住宅で孤独死されては困ると思っているらしい。他人は孤独を憐れむが、むしろオレは一人になって心が解放された気がしている。だから、このままがいいんだが、どう思う?」
 「人間そう簡単に死ねるものではない、と言い返してやれ」
 五十年前の彼の言葉を、私はそのまま返してやった。

 人生のスタートは「生」、ゴールは「死」である。スタートを切ったらゴールまで泳ぎ続けるしかない。風に煽られて浮いたり沈んだりすることもあるが、溺れたら、あわてずにまず浮かべ、そして泳ぎ続けろ。それが生きる秘訣なのだ。

みずすまし51号(令和3年12月3日発行)

みずすまし51号表紙

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