
「紫金の華、輪のごとくなるを 仏の上に散らすともいまだ供となさず。
この現身の無我に入るもの 乃ち第一の供となす」
この聖句は、釈尊がいよいよ御入滅されようとする時のお言葉として、漢訳経典の一つである『長阿含経』※に記されている一節です。釈尊は80歳の時、侍者の阿難尊者を伴い、霊鷲山を下ってガンジス川を渡り、布教の旅に出られました。ところが、その途中で鍛冶屋のチュンダが提供した食事により食中毒にかかられたようです。経典からは出血性の下痢であったことが伺えますので、腸チフスか赤痢のような病だったのでしょう。
苦痛にゆがむ釈尊のお顔にふれるたびに阿難尊者は不安を募らせていたにちがいありません。すでにヴァイシャーリーという街で、「私の命は三月しかない」と聞かされていたため、それが現実のものになろうとしていたからです。釈尊が御入滅された場合、これから誰を頼りに修行すればいいのか、サンガはどうなるのか、遺骸はどうすればいいのか、侍者としての責任も相まって悲しみと不安に苛まれたことでしょう。そんな阿難の気持ちを察し、釈尊はいろいろとご指導されましたが、ついに一歩も歩けない状態になられました。そこは、現在のネパールに近いクシナーラという場所でした。
釈尊は阿難に頼んで床を用意してもらうと、沙羅の木、いわゆる「沙羅双樹」の下に身体を横たえられます。日頃から「死の悲しみを越えよ」という教えを受けてきたものの、これで今生のお別れになると思うと、阿難の目には涙があふれて止まりませんでした。するとその時、沙羅双樹が時ならぬ花を咲かせ、はらりはらりと花びらを釈尊の身体に散らせました。
「沙羅の花も世尊との名残を惜しんでいるのでございましょう。この上もないご供養でございます」
しかし、その言葉を制して、釈尊はおっしゃいました。
「阿難よ、そうではない、そうではないのだ。私の弟子であろうと信者であろうと、よく法を心に受け止め、それを実践しなければならない。まさしく実践し、よく法にしたがって行ずる者。その者こそが最高に如来を崇め、重んじ、敬い、尊び、供養する者である」
『長阿含経』の本文ではこのように説かれており、先の「紫金の華……」の一節は、その後に綴られている美しい詩句形式の表現となっています。
ここで、供養ということについての釈尊の真意が浮かび上がってきます。供養といえば、一般に日本ではご先祖さまが対象です。また、他の仏教国では釈尊へのものを指し、釈尊御入滅後の仏教徒は仏舎利(釈尊のお骨)が納められた塔を建てたり、仏像を造ったり、教法を文字化したり、釈尊に花や飲食物を捧げたりすることを供養と考えてきました。しかし、「法にしたがって行ずる」ことこそが真の供養であることがわかります。
「この現身の無我に入るもの 乃ち第一の供となす」という一節について説明すると、「現身」とは自分の肉体、「無我」とは心、魂のことを指します。一般的に「無我」は「我が無い」、すなわち「自我は存在しない」と解釈されているようですが、釈尊は、「人がおのおの、これこそが真実の我であると思っているような我はどこにも見いだされない」という意味で述べられたのであり、「心や魂は存在しない」と言われたわけではありません。他の経典には、「よく鍛えられた心をもて」という教えもありますので、この一節は「自分の心に真理の法を浸透させることが私に対する真の供養である」という意味になります。
ところが、私はそれだけで解釈を終わらせないのです。結論から述べると、それは釈尊への供養であると同時に、「自分の心の仏(仏性)を喜ばせよ」という意味に解釈しています。仏教でいう法とは、自分の心を安定させることを目的としています。私たちの心は日常生活の中で、膨らんだり収縮したり、温かくなったり冷たくなったり、きれいになったり汚れたり、常に変化しています。その変化の中の最下層が地獄、餓鬼、畜生、修羅という世界なのですが、そこに生じる怒りや欲や執着が心を醜いものに仕立ててしまい、そのような心が常態化すると、自らの汚れに気づかず、美しい仏性を牢獄に押し込めてしまうことになる。仏教では自分を苦しめることを罪の一つとしています。
つまり、「この現身の無我に入るもの 乃ち第一の供となす」という言葉は、法にしたがって修行することが釈尊を喜ばせる、すなわち釈尊を供養するということだけではなく、自分自身の真の歓喜、満足を意味しているのです。
『法華経』の薬王菩薩本事品という経文に次のような一節があります。
「たとえ三千大千世界の珍宝物をもって仏や阿羅漢に供養するよりも、此の法華経の一四句偈を受持する福に勝るものはない」
「三千大千世界の珍宝物」とは、宝石や金銀などの宝飾品のことから山海の珍味に至るまでの希少価値をもつ物のことですが、悟りを開いた者にそれらを供養するよりも、法華経の教えを受持する価値がずっと大きいということです。ここにある「福」という言葉は非常に奥が深く、「魂を飾る」という意味をもっているようです。
落ち着いて考えてみると、人間のそれぞれの苦しみの原因の多くは、欲望と執着にあります。その足りなさに気づかず、他人に非を押しつけることから、人間関係の苦悩も生じています。ですから、自己を省みる心をもつことが本当の悟りであり、それが真の福なのです。よって、釈尊は供養というものを自らの仏性を輝かせる糧にするものだと教えられていると解釈するのが正しいのではないでしょうか。その意味で、修行というものも、法を自分の心に染み込ませていくことにあると考えられます。
仏教は苦しみを乗り越える智慧を教えていますが、現在の心は過去からのつながりで形成されています。積み上げられた自分の個性をどのように修正していくかという本質に気づかなければ、苦しみは永遠に取り除けないわけです。心の修正や苦しみの解放のためには自己中心の視点を離れ、常に自分自身を見つめる必要があります。そのプロセスで祈りや聞法、止念観などの実践が心を調えさせてくれるのです。
クシナーラにおいて釈尊の身体に降りかかった沙羅双樹のことは、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす……」にも表されています。ここでは人生の無常観が描かれていますが、無常だからこそ、生きている今を大切にする。一瞬一瞬を豊かに生きることが必要なのです。このように考えると、釈尊は、真理の法をおのおのの心に浸透させることが最高の供養であるという考え方に立っておられたと思わずにはいられません。
「この現身の無我に入るもの 乃ち第一の供となす」
輪廻転生が広く信じられていた時代ですから、この一節は、きっと自分の仏性を供養することの大切さを強調しているのだと思います。
情報通信技術が急速に普及した時代、心を汚す機会にあふれる環境にあります。「知る権利」と言いますが、むしろ、そこから距離を置くことも権利ではないでしょうか。私たちは貴重な時間を浪費せず、心が洗われること、希望や元気を育むような時間をたくさんつくりたいものです。経典には「懺悔」、「歓喜」、「随喜」という言葉が多く見られますが、いずれも心を豊かにすることを意味しています。
今年の二月、お寺の境内の一角に畑を作りました。「晴耕雨読」といいます。静かに法にしたがって行じつつ、心豊かに生きられる環境に深く感謝しています。
まど10号(令和7年3月3日発行)
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