「憂い」を共にする

  愚者の常に喜悦すること 亦光音天の如く、
  智者の常に憂ひを懐くこと 獄中の囚れ人に似たり

  (目先の欲望に動かされている愚かな者が光音天のように喜んでいて、智慧ある者が
牢獄の囚人のように悲しんでいるのはおかしなことだ)

 この聖句は原始仏教聖典の阿含経という経典に書かれています。これに似た文章が二、三カ所出てきますが、その言い回し方から推測して、この一節はお釈迦さま以前のインド社会で頻繁に使われていた古諺のようなものではなかったかと考えられます。お釈迦さまのお気持ちにそれが合っていたことから、お説法のとき、時々、引用されていたのかもしれません。
 ここにある「光音天」というのは、大黒天とか弁財天とかいう場合の天の神のことです。この神は喜びを食べ物にしている神と書かれています。言葉でなく光で喜びを表現することから名づけられているようです。人間で言えば、良いことがあったとき天に昇ったかのように嬉しがる心境に似ています。それを愚者というのは、良いことも長くは続かないという現実を知らない人間の無知を指しています。人間は欲望の執着にのめり込んでしまいやすい動物です。
 この聖句をよく噛みしめてみると、享楽を追う人生に喜びを置く考え方と、その価値観を否定する考え方の二つが表れています。たとえば、前者が儲けること、遊ぶことなど自己一身の喜びを追求する人々とするなら、後者はそのような風潮から人々を目覚めさせようとしている人と言えるでしょう。おもしろく、楽しく生きていくことが悪いというわけではありません。苦虫をつぶしたような顔をして暮らすよりも、笑いながら生きるほうがいいに決まっています。けれども、それが人生のすべてというわけではありません。
 お釈迦さまは、毎朝の托鉢のとき、世俗の人々のさまざまな姿をご覧になったにちがいありません。上層階級の若者たちが徒党を組んで女性を探し回ったり、遊び戯れたりしている様子、酒を酌み交わしながら賭博に興じたりしていた庶民の様子が経典に出てきます。みんなが自分の欲を求めれば社会はおかしくなります。儲けとか遊びという享楽を追求しながら年を取る社会など生きている意味がない。そんな風潮にお釈迦さまは胸の疼きを感じておられた。なのに、遊びほうけている者が笑い、真理に目覚めた自分が鎖につながれた囚人のように思われる。たしかに、それは割に合わない、おかしなことです。

 お釈迦さまは、人間がこの世に生まれた意味、死後の世界の存在、正しい生き方について悟りを開いておられました。とくに、業によって流転する生命の神秘を解明されていたことから、それぞれが努力して、智慧を出して困難を乗り切ることに人生の意味を置かれていたのです。互いに助け合うことも理想の一つでした。自分の悟りは、そういう理想の人生や社会づくりにつながっているという確信があったのです。ですから、お釈迦さまの憂いは慈悲の憂いというべきものでした。

 高校時代、「生きることに意味はない。おもしろい人生を追求すればいい」と主張していた親友がいました。彼は一流の会社に入社し、営業成績を上げ、破格の高給取りになりました。が、高級クラブの女性に夢中になり、奥さんを苦しませました。奥さんは悲痛のうちに病気で亡くなりました。若いころの彼にとっての幸福の絶頂期は、その彼女と遊んでいたころにあったようですが、バブル崩壊のあおりを受け会社が倒産し、カネ回りが悪くなると、たちまち縁の切れ目となり、すべてを失ってしまいました。残ったのは後悔だけでした。
 「オレは人間として大切なものを忘れていた。絶頂と感じていたころもじつは地獄の底に堕ちていただけだったとは気づかなかった。無知だった」
 そう言って奥さんへの鎮魂供養をしながら後悔の余生を送っています。
 たとえば、人生経験が豊かな親は、好き嫌いの感情で動く我が子の姿を見て、その甘さにやるせない思いを抱くときがあります。人間関係で子どもが悩んでいるとき、その体験が将来に役立つと思っても、その気持ちがうまく伝わらない。耐えながら心を鍛えていくことに人生の意味があると知り抜いている親にとって、さまざまなアドバイスが裏目に出るのはやるせないことです。我が子の成長を願う親の憂いには深いものがあります。

 喜びというのは食事でいうならおかずの一つのようなもので、主食のご飯は人生の意味を学び取る生活にあります。利他の心や克己心、辛抱や精進、心の向上や智慧を生む境地など、鍛えられた心をつくることにこそ人生の意味があります。そのため表面的な喜びだけを追求する者をお釈迦さまは「愚者」と呼んでおられるのです。
 このように考えると、「智者の常に憂ひを懐くこと 獄中の囚れ人に似たり」という意味がよく理解できます。神々の要請を受けて仏教開教を決意されたお釈迦さまでしたが、ご自分が悟ったことを世俗の人びとに伝えるむずかしさに悩んでおられたのです。仏さまにも慈悲の憂いから起こる悩みがあります。お釈迦さまは、ご自分の悟りについての絶対の確信、社会道義、良心的情熱、慈悲の情愛が深かったことから、理想と現実のギャップに悩んでおられたのです。遊びほうけている者が笑い、目覚めさせようとしている自分が悩むことへの割り切れない憂い。その気持ちは理解できます。
 もう一つ、お釈迦さまは当時の宗教に対しても深い憂いをもっておられました。それは神の威を借りて大衆をごまかす淫祠邪教のようなものでした。現世利益を求める庶民の気持ちは理解できるけれども、人間として努力や反省する道を教える神官はいなかった。それゆえ一人目覚めた者としての憂いが大きくなっていったのです。その気持ちを獄中の囚人にたとえるほど、お釈迦さまは苦しんでおられたといえるでしょう。

 今、地球環境が悪化の一途をたどる中、世界各国が自国優先主義に流れ、世界各地で戦争が続いています。これらは為政者のアイデンティティーに起因する自我意識の暴走です。あたかも自分が正義であるかのように取り繕って噓を流し、権力を手中にしようとする卑劣な指導者が世界に増えています。その様子を見て、救いようのない人間の悪業に苛まれ、嫌悪感や憂いを感じるのは私一人ではないはずです。
 人間は幸福を求める一方で、不平不満、対立、いがみ合い、いらいらした感情など、幸福になれない要素があります。取り除くことは容易ではありませんが、この要素を消滅しなければ人類は救われません。そこから始めなければ世界平和など絵に描いた餅でしかない。「どうしようもない現実」と、手をこまねいていては何も変わりません。お釈迦さまは世を憂い、国を憂い、少しでも社会を良くしていこうという慈悲をもっておられました。
 私たちは身近な問題として、まずは安らぎの生活について家族で話し合う時間をつくりたいものです。物質的な充足だけを求めるのではなく、人間の悲しみや憂いに共感する豊かな心を持ちたいものです。一人ひとりが正しい仏教を学ぶことで、人間や社会についての憂いを共にする。私たちは今やもうすでに憂いを共有すべき時代を生きているのです。

まど9号(令和6年12月3日発行)

まど9号表紙

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