これまで七回にわたってお釈迦さまの生涯を述べてきたのは、仏教についての正しい認識をもってほしかったからである。仏教がどのような世界観をもち、その実践と生き方によってどのような人生が開かれ、私たちをいかに幸福にしてくれるかという視点に立たなければ正しい仏教は見えてこない。
先日、テレビを観ていると、レポーターが数人の若者に「今、ほしいものは何か」と尋ねていた。答えはシンプルで「おカネ」、「やりたい仕事」と返ってきた。路上インタビューということもあって、とりあえず面白半分に言ったのであろう若者の答えに笑みがこぼれつつも「幸福の条件はそれだけではない」と思った。年を取ればわかることだろうが、人生においてもっとも大切な宝は「智慧」である。人生は智慧によって左右されるのだ。しかし、「智慧がほしい」と言う人はいない。
知恵と智慧はちがう。一般的には常用漢字の「知恵」が身近だが、仏教でいう「智慧」は、人の気持ちや仕事の進め方の前後左右を読んだり、他者とうまく調和していくための叡智のことである。お釈迦さまは、その智慧を「慧光」と名づけておられる。
現代の暮らしには、ありとあらゆる場所に明るい光があるので実感しにくいだろうが、昔のように真っ暗闇が当たり前の時代は、光がとてもありがたいものであった。子どもの頃の私は、夏になると川で、春、秋、冬になると山を駆け回ったものである。今のようにゲームやスマホもない時代だったので、友達と川に泳ぎに行ったり、山にメジロを捕りに出かけたり、隠れ家をつくったりして、日が暮れるまで遊んだものだ。少し、昔の遊びを紹介しながら思い出を語りたい。
ある日、20人ほどの友達と山で「にがしめん」という遊びをした。2つのチームに分かれ、半分は「鬼」になった。最初に鬼に捕まった者は一本の木にタッチしたまま離れられず、捕まった順に手をつなぎ合うルールになっていた。一方、鬼を振り切って逃げた誰かが捕まった者にタッチすれば、捕まっていた仲間を一斉に解放できるという遊びだ。この遊びの魅力は、鬼との駆け引きのスリリングさと解放された仲間が喜んでくれるところにあった。ただ、その日は足の速い上級生たちが鬼になったので、私は炭鉱の坑道へ逃げ込んだ。炭鉱はすでに閉山していたが坑道だけは残っていて、そこへ上級生の鬼たちが私を捜しにやって来た。仲間を解放するどころか、奥へ奥へと逃げ込んだところ、その場所は迷路のようになっていて出口がわからなくなってしまった。私は必死に壁をつたって水びたしの坑道からやっとの思いで外に出た。出てみると、光の素晴らしさがわかった。そんな記憶が60年を過ぎても鮮明に残っていることからすると、幼心にもいかに恐怖の体験だったかがわかる。
暗闇は自分の外にのみあるわけではなく、心の中にもある。後年、師を失って宗門の活動の方向性に迷ったとき、これからどこに向かえばいいのか、まさに坑道の闇をさまよった時と同じような心境だった。迷いや苦しむときの心の根本を、仏教は「無明」と呼んでいる。この無明が道をふさぎ、人をえり好みさせるのだ。
たとえば、人は自分にとって都合がいいかどうかで相手を判断する。自分と意見が合う人は「良い人」となり、理解してくれない人は「悪い人」となる。そして、後者とうまく付き合うことができなくて、怒ったり、ごまかしたり、開き直ったり、高慢になったりしているうちに周囲からの信頼を失ってしまうことがある。そればかりかその事実にさえ気づかないこともあり、実際、部下にどう思われているかわからないでいる上司は少なくない。人間は他者のことは冷静に見ることができても、自分のことはわからないものだ。そんな無明の中で動く感情的、衝動的、刹那的な心で物事が開けるわけがない。
私が迷っていた理由は、これからの時代を読むこともできず、自分自身についての正しい理解もなく、人を動かす力もなかったからである。そんな忸怩たる過去を経験して、今はだいぶ進化したように思う。
自分自身を振り返る習慣が身についている人は、自分自身の性格をよくわきまえている。相手に対応するときも自分の意見ばかりを主張せず、冷静に話を聞き、相手の心理や背景にまで配慮する。内なる智慧の光明、いわゆる「慧光」によって、自他を照らしているのだ。
仏教ではもっとも理想的な心の状態を「涅槃寂静」という。「涅槃」とは欲や執着のない心の世界、「寂静」とは心が鏡のように澄んだ境地を指す。ここから禅や瞑想が生まれている。これらの功徳は、物事を正しく把握する精度を高めてくれるところにある。人の気持ちも、仕事上のミスやトラブルもおのずと予測できるので、あらかじめ対応することができるようになる。お釈迦さまは、こうした目に見えない時空を超えた世界を照らす眼をもっておられた。私はそこに、知見力という「慧光」を見いだしている。
これまで36年間の宗門運営に際し、私に智慧を与えてくれたのは、「止念観」を通じて到達した涅槃寂静の境地であった。この行法は師が編み出されたのであるが、私だけではなく、私の弟子も踏襲している。
昨日、朝礼が終わって、弟子の一人が次のような報告をしてきた。
「先日の恩日の読経中に『今日の参詣者の中で、誰か病気のことで気をつけるべき人はいらっしゃいますか』とお尋ねしたら、Nさんの顔が出てきた瞬間、私の後頭部から左耳にかけて急に痛くなりました。その後、そのことをNさんにお伝えすると驚かれ、『じつは頭の左半分が痛くて、とくに左耳が聞こえにくいのです』と話されました。すぐに病院へ行くように言いましたが、それでよろしかったでしょうか」
私は「それでいい。貴重な経験をしたね」と答えた。
これは弟子自身が観じたのではなく、恩日の主神である吉祥弁財天龍王からのメッセージである。よって、弟子にとっては他力的なお知らせということになる。けれども、お釈迦さまの場合は、涅槃寂静がもたらす自力による知見力であった。私もこれまで修行体験の中で、さまざまな事案について神仏より教えていただいたり、自分の力で解決の道を開いてきた。今でも何かあると、心を静めて智慧を練り、自力の知見力を求めて修行している。救済という現場にあっては、医療用の診察器のように、知見力に現れる「慧光」が必要なのである。慧光は「エコー(超音波)検査」と考えて差し支えないだろう。
『法華経』の如来寿量品に次のような経文がある。
「慧光照すこと無量に 寿命無数劫 久しく業を修して得る所なり」
「私が無量のものに、いつまでも慧光を照らすようになれたのは、長い時間をかけて自分の業を修正する努力を重ねてきたからである」という意味である。お釈迦さまは、四苦八苦という人びとの諸苦をくみとりながら、智慧の光で慈悲の法を説かれた。
人生において「智慧」は大切な宝である。人生は智慧によって左右される。その智慧の光明は誰の心にも多少なりとも宿っているが、多忙な日常がその力を意識の奥に閉じ込めている。お釈迦さまのようにはなれなくても、何か困ったことが起こったら、その一点に意識を集中させ、静かに打開の方法を見いだす訓練を習慣化するとよい。ことさらに仏壇の前に坐らなくても、勉強机の前やお風呂の中などでもいい。場所はどこでもよく、課題に対して一点集中することによって判断の精度が高められていく。
仏教はこの混迷の世界に、調和と秩序の体系を確立する導きとして、時空を超えた真の人間力を与えてくれる。その体験によって「闇に燈を得たるが如く」という『法華経』の一節が真実のものとして輝き、光明として自他を照らしてくれる。
ふと、カーテン越しに外を見ると朝になっていた。朝の光ほど安心を与えてくれるものはない。
まど8号(令和6年9月3日発行)
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