お釈迦さまの悟り

 「生は尽き果てた。清浄行が完成した。なすべきことはすでになされた。もはや、かかる生存の状態を繰り返すことはない」

 これは原始仏教聖典『スッタニパータ』にある言葉である。「生は尽き果てた」というのは、精根尽き果てたという意味ではなく、「ついに生きながらにして解脱を果たした」ということである。「かかる生存の状態」とは、ずっと苦しみつづけてきた状態のことであり、「繰り返すことはない」とは、二度と人間界に生まれ変わることはないという確信である。そこには法悦の実感があったのだろうが、なにせ悟りの境地のことだからむずかしい。
 お釈迦さまが菩提樹の下で三七日、つまり二十一日間、瞑想を組むことによって悟りを開かれたというのは有名な話である。そのときの悟りは、「四諦の法」、「八正道」とされているが、じつのところ、何をもって悟りとするかは判然としていない。私は師から、二十一日間に思惟されたのは、自然の草木の観察から人間の心に視点を移しての悟りだったと承っている。それもむずかしいので、ここは想像するしかない。その光景を私なりに描いてみよう。

 西の空を見ると、燃えたぎるような夕日が地平線に沈もうとしていた。少しすると菩提樹の木立の向こうから、スーッとさわやかな風がそよいできた。梢の揺らぎが安堵の吐息のように思われた。少し前に雨季の濁流が菩提樹の根を洗い、うだるように暑い夏を越せるかどうか案じられていたが、菩提樹は枝々に養分を送るため、乳房のように根を膨らませて大地にしゃぶりついていた。
 シッダールタは、生き抜こうとする菩提樹の力に驚きながら、この大樹によってもたらされた恩恵を振り返った。今こうして灼熱の日光をさえぎってもらえていることもそうだが、発熱したとき、腹痛に苦しんだとき、シッダールタはこの樹木の葉を、果実を、樹皮を食すことでどうにか生き延びてきた。

 「みんな、誰かのために生きている……」

 シッダールタは、視線をしずかに人間に向けた。
 かつてカピラ城で暮らしていた頃、民は朝早く起きると、まず北にそびえる霊峰ヒマラヤに手を合わせてから仕事に向かい、サキャ国の発展に尽くしてくれた。暮らしはけっして豊かではなかったが、そこには家族を愛し、仕事を愛し、国を想う尊い姿があった。
 しかし、城を出て大都会のマガダ国に来てみると様相は一変した。バラモンの神官たちのなかには信者の布施を受けながら贅沢な暮らしをしている者が少なくなく、王族たちは領地を奪いとる戦いに明け暮れ、非番の男たちはソーマ酒※註を飲み合いながら女性の話に興じ、金持ちの商人たちは自宅の庭に客を招待し、山海の珍味を前にひそかに儲け話を語り合っていた。とくに、ガヤーの街で鉄が発見されてからというもの、みんなの目がギラついてきた。媚びを売る者、妬む者、高慢な者、競争相手に暴力をふるう者で街は危険になった。シッダールタは、象頭山の高台から街を見下ろした。

 「街は燃えている。みんな炎を強くにぎりしめている、楽を求めて苦を増している……」

 6年の難行苦行をつうじて、欲望を抑制することのむずかしさが骨身にこたえていたシッダールタは、ガヤーの山林に移って以来、人間が苦を呼び込む原因を観想した。
 無明――
 それは身体的な盲目を指すのではなく、真実を見抜けない眼を意味している。炎を炎と見抜けない無知のことである。欲望、執着、奪い合い、その無明が苦しみの根本であるとシッダールタは思った。しかし、逆のことも考えてみた。

 「人間の心は無明だけではない。美しい本心もある」

 「本心」とは本当の気持ちという意味ではなく、不純や悪をきらう本来の心のことである。みんなその「本心」を、どこかに持ち合わせていると、シッダールタは思うのである。やましいことをして成功しても、本心は「おまえはニセモノだ」とささやく。また自分を愛する者は、人も自分が愛おしいと思っているのだから、他者に対しておのずと慈愛の心が起こるはずのものである。自分の魂が満足しないのは自分をごまかせない本心があるからである。
 そんなささやきも、聞こえぬふりをして封じ込めることはできるが、それをつづけているかぎり心は矛盾ゆえに晴れない。長い無明から覚めるためには、本心を浮かび上がらせる以外にない。本心は自分の心と向き合うことから掘り起こされていく。そのようにシッダールタは思い至った。

 菩提樹の下で、いろいろな思惟を積み上げたあげく、最後の七日目の夜半、シッダールタは、人間が無明であることを悟った。人は自分自身を知らないのである。心に起こってくる感情を制御することができない。その無明が輪廻をもたらす。よって、大切なことは「知見の眼」をもつことにあると考えた。知見の眼をもつことができたら、目先の欲望や執着に振り回されることはなく、苦の世界に再生することもない。この人間のどうしようもない無明を破るために、シッダールタは法に基づく自覚と平静な心構え、すなわち「涅槃」に入ることが必要と悟った。迷いの闇から本心を浮かび上がらせ、この本心が輪廻から解脱に至る本体であると悟ることで、シッダールタはついに仏陀になったのであった。
 ところで、ときどき、私はお釈迦さまの教えはまことに厳しく、むずかしいと感じることがある。たとえば、次のような言葉がそうである。

 「他人の行為は関係ない。自分が何を為し、何をしなかったかを考えよ」

 「諸行無常、くよくよしていては自分を傷つけるのみで無益である」

 「過去は過ぎ去った。未来は来ていない。ただ今日なすべきことを熱心になせ」

 たしかにそのとおりではあるが、人間には利害関係に悩むときもあれば、くよくよすることもあり、過去の後悔や将来への不安を感じることもある。お釈迦さまの悟りは心の問題であるだけに容易には解決できないことが多い。そもそも人生を真剣に考えれば考えるほど、生きることの厳しさや、むずかしさを知るのである。生きる意味など考える余裕もないというのも現実であるが、じつは自然がその答えを教えてくれている。そこで、若い人に言っておきたいことがある。それは自分自身を大切にして、自分でなければならないものを見つけよということである。
 たとえば、バラの本心はバラの花を咲かすことに向けられている。藤は藤の花を、桜は桜の花を、桃は桃の実を結ぶことに向けられている。彼らは、上へ上へ、光へ光へと向かって生きている。その過程には困難や挫折もある。それでも、それぞれのいのちには、自分でなければならない種が仕組まれている。それぞれが人のために、世のために、本心を発揮することによって全体の調和がもたらされている。お釈迦さまは、それぞれの持ち前を発揮する心を「仏心」、それによって創られる世界を「楽土」と呼ばれた。
 お釈迦さまの悟りには、心から掘り起こされた世界観がある。その悟りは、いのちへの憧憬から起こっている。若い人には、このような価値を仏教に発見し、少しでも自分の仕事に取り入れてほしいと、私は願っている。

まど4号(令和5年9月3日発行)

まど4号表紙

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