勧請より友情

『利の為に(人々は)親近す。
無所得の友は今や得ること難し』
         (スッタニパータ)

この聖句は人に出家を勧めるときに説かれた釈尊のことば。
サキャ国の王宮には利得を求めて群がる者が多く、
シッダールタ(後の釈尊)にとって真の友人は皆無であった。
その頃のインド社会は打算や見せかけの友情であふれていた。
幼少期から人間不信に陥っていた釈尊の気持ちが偲ばれる。
しかし、真の友人はいなかったけれども、
御入滅に際しては僧伽の弟子たちに説かれている。

『私が死んだ後は、互いに、友よ、と呼び合いなさい』

この「友よ」というのは切磋琢磨できる法友を意味している。
釈尊の願いはご自分が入滅した後、
遺弟たちが法を中心として
修行を継続していくことにあったのだろう。
そして、その遺訓は後世に伝えられていった。
仏弟子たちは各々禅定に入って覚りを求め、
互いに励まし合いながら修行に精進した。

何でも打ち明けられる友人がいれば人生は楽しい。
けれども、うまく対応できなければ傷つくこともある。
最近の「引きこもり」にもそんな理由があるのだろう。
この生きづらい人の世にあってはせめて心通い合う友が欲しい。
喜びも悲しみも分かち合える親友がいたら心強い。
善き親友を得るためには、
まず自分が善き友にならねばならない。

善き友となるためには利己的な思惑や負担感があってはならない。

こうすればこうしてもらえるとか、
こうしてもらったからこうしなければならないとか、
こちらに打算や気の毒な感情があれば、
相手からすると善き友とはなり得ない。
人の悩みを軽く受け流したり、
馬鹿にしたような言動をするようでは善き友にはなりにくい。

親友は学友や部活の友、
あるいは趣味や特技の仲間などからできることもある。
それも苦楽を共にしたら一層深くなる。
心から理解し合える友人のことを心友、
信じ合える友人のことを信友、
信仰仲間のことを法友ともいうが、
いずれも共感、共鳴が紡がれてつながっていくようである。

学生時代の私には大勢の友人がいたが、
その多くはしだいに疎遠になっていった。
互いに表面だけで付き合い、
心の底から語り合える友ではなかったからかもしれない。
しかし今は、無二の親友もいる。

彼とは体裁も遠慮もなく言いたいことが言い合える。
高校時代の同級生であったが、子どももなく、奥さんも両親も失い、
天涯孤独の身になったとき再会した。
彼は脳梗塞で倒れてから少し手足が不自由になったので、
時間を見つけては時々様子をうかがいに行き、
掃除や片づけを手伝うこともある。
感情移入の仕業か、なぜか見捨てて置けない。
いつもメシをおごらされているが負担に思うこともない。

ここで釈尊のおっしゃった遺訓について考えてみる。
『私が死んだ後は、互いに、友よ、と呼び合いなさい』
「友よ」というのは「法友」のことを意味しているが、
この「法」というものを読み取ることは容易ではない。
シンプルに言うと、「ほとけの教え」を中心として、
互いに切磋琢磨し合う友のことになるのだろうが、
信仰仲間という形式的なつながりのことではなく、
人生や心を貫く真理という根源を追求し合う友のことだろう。
仏弟子たちは禅定に入って「無所得」を求道した。
欲望から起こる利得勘定や打算的な悪業から免れる法を追求しつつ、
互いに支え合いながら修行に励んだ。

物質文明や経済競争の現代にあって、
その法で結ばれることは難しいかもしれない。
しかし、無所得の法に裏打ちされた人格は
必ず多くの友を引き寄せる。
人間に大切なのは禅定と友情。
いらないのはそろばん勘定のようである。

みずすまし48号(令和3年3月3日発行)

みずすまし48号表紙

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