正法事門法華宗

悲しみを乗りこえて

 「愛」という文字は、後ろに心を残しながら、
 立ち去る人の姿を表しているという。

 春まだ浅い三月十一日。
 地震と津波が東北・関東の太平洋沿岸に襲いかかり、
 あの美しい三陸海岸の漁港の街で、
 たくさんのいのちが奪われた。
 家も、車も、村も、街も流され、
 がれきの廃墟となってしまった。
 何もかもズタズタに引き裂きながら、
 海は何事もなかったように、
 しずかに波をただよわせていた。
 豊饒の海原が一瞬のうちに悪魔と化したとしても、
 これを不運と呼ぶにはあまりにも酷すぎる。
 
 だが、津波が奪えなかったものがある。
 それは愛というこころのきずな。
 逝こうとする人が後ろに残したものは家族の安否、
 助かったのなら幸せになってほしいという願いだったにちがいない。
 愛する者同士が別れなければならない哀しみ。
 それは痛恨の極みではあるけれども、
 こころまで奪われることはない。
 
 家の二階がかろうじて形をとどめているがれきの中で、
 首も据わらない乳児をおくるみの中に、
 抱きしめたままの若い母親。
 突如襲ってきた津波に妹を守ろうと身をかぶせたのか、
 背中を丸めたままの姉。
 車に乗って逃げようとして渋滞に巻き込まれ、
 呑み込まれた車の中で手をつないだままの夫婦。
 離ればなれにならず一緒に見つかったことだけが、
 せめてもの救いだったのかもしれない。
 堤防の水門を閉めるために命がけで海へ向かった消防団員。
 就活で必要なパソコンを取りにもどろうと、
 自宅へ向かおうとしたところで津波に呑み込まれた親子。
 流される子供を助けようと海に飛び込み、
 そのまま行方不明となった男性。
 無縁社会とは言うけれど、
 我が身にかえて助けてあげたいと願うこころは、失われてはいなかった。

 哀しいまでの愛を持つのは人間だけではない。
 テレビの画面で一匹の茶色の犬が救助を求めていた。
 津波に巻き込まれて泥にまみれ、
 息も絶え絶えに横たわる白い犬に、
 しきりに助けを求める茶色の犬。
 だが、人間すら救助できない現実。
 カメラマンもどうしてあげることもできなかったことだろう。

 気仙沼市で捜索活動に当たっている知人は言った。
 「茫然自失の状態。言葉もなくただ遺品を探すだけ……」
 いのちは助かっても、家をなくし、肉親を失い、
 泣きながらがれきに眼をやる人の姿に、
 かけてあげる言葉すら見つからなかったという。
 それでも七人の家族を失った十六歳の女性は、
 被災者救援のボランティア活動に奔走していた。
 笑顔を絶やさない姿がいじらしかった。
 日常がもどれば、家族を失った悲しみは後から募るのだろう。
 同じ思いをしている人々が大勢いるからこそ、
 今はまだ泣ける状態ではないのだ。
 
 こころのつながりは今、連帯感へと広がっている。
 深刻な福島原発でも
 犠牲を顧みず作業に当たる人がいる。
 各地から被災地には警察、消防隊、自衛隊、
 医師や看護師さんたちが駆けつけ、
 ボランティアの人々も被災者の救援に当たり、
 日本全国から励ましの便りや救援物資や義援金が届けられ、
 世界中から救援の手もさしのべられている。
 ある外国人が称賛していた。
 「非常事態に暴動を起こさず、
 秩序ある行動をとる日本人はすばらしい」と。
 ただ、一部にはこの不幸を利用して、
 盗みや詐欺をはたらく人間もいないわけではない。

 かつてコーサラ国という古代インドの大国の王が妃と語り合った。
 「人間にとって一番大切なものは何か……」
 結論は「自分自身」ということになった。
 そのことを釈迦に問うたところ教えられた。
 「その通りである。だから、己を愛する者は他を害ってはならない」
 自分を愛しいと思うこころは自分にとどまらず、
 身近な家族を愛おしむこころにつながる。
 そしてそれは他者へと及ぶ。
 他者の悲しみや苦しみが思いやりへと発展していく。
 それが人間というものだ。
 ほとんどの日本人は他者の悲しみに乗じたりはしない。
 苦しんでいる人々を横目に
 卑劣な行為をはたらくことの愚かさと、虚しさを知り抜いている。
 人の眼はだませても、自分はだませない。
 彼らもいつかわかる日がくるだろう。
 
 いつかは誰もが、愛すべき同胞とも
 別れの悲しみを味合う。
 釈迦はそれを「諸行無常」と教えている。

 犯罪に巻き込まれ、事故や病気などによって
 志半ばでこの世を後にする人もいる。
 愛すべきわが子に先立たれることに勝る悲しみはない。
 親子げんかも貴重な思い出。
 たまに言い争い、取っ組み合いになることがあっても、
 家族だからこそ本音がぶつかる。
 ぶつけ合いながら、相手の気持ちをくみ取り合う。
 「きずな」という言葉にある「きず」……。
 「きずな」が強ければ強いほど「きず」がうずく。
 人はそれによってこころを学ぶのだ。
 かけがえのない家族を失う別離に
 形態のちがいがあるとしても、
 悲しみが癒えるまでには時間がかかる。
 
 急ぐ必要はない。
 我慢しなくてもいい。
 なみだが涸れるまで泣けばいい。
 こころに溜まった悲しみは、
 泣くことでしか晴れない。
 どうしようもなく人間に仕組まれた運命、
 どうしようもない無常の鉄則、
 愛する互いがなぜ引き裂かれなければならないのか。
 罪もない人間がなぜ突き落とされるのか。
 この世に神や仏もあるものかと、
 やり場のない悲しみが、
 うねりのように湧きたつかもしれない。

 しかし、悲しみを苦しみにはしたくない。
 先に逝った人は、
 家族と離別した悲しみよりもなお一層、
 家族の苦しみが自分の苦しみとなってふくらむ。
 だが、形はなくなっても、
 人は家族のこころに永遠を生きる。
 姿はなくても、笑顔は見える。
 声はなくても、言葉は伝わる。
 私たちは、ひとりではない。
 宙から見守ってくれる家族がいる。
 応援してくれる友がいる。

 釈迦は幼くして母を失い、
 長じては愛すべき弟子を失い、
 人の世の無常を痛感し、
 次のような言葉を遺している。

   来たる者にも歓喜することなく、
   去る者にもまた憂い悲しまず、
   染まず、また憂いなし。
   二つ心ともに寂静なり。

 悲しみからにじみ出たこの聖句の奥には、
 無常の波にそっと乗った白鳥の感がある。
 強くにぎりしめると、苦が生まれる。
 嬉しいことがあっても有頂天にならず、
 悲しいことがあっても絶望の底には沈まない。
 この二つの態度が無理もなく、
 自然に溶け合うとき、
 悲しみを苦しみにしないこころが生まれる。
 長命が良く、短命が哀れということはない。
 恥じないこころで成すべきを成す。
 人生はそれだけのことだ。

 病葉は落ちて新芽を吹かせる。
 死は是れ、次世代への中継地。
 悲しみは是れ、新陳代謝を促すの転機。
 困難は是れ、無限の可能性を引き出すの機縁。
 涙をぬぐい、悲しみをバネとして、
 眉を上げて、明日に翔んでほしい。
 闇も深くならなければ朝は来ない。
 明けない夜はない。
 つらく、さみしいけれども、
 悲しみを乗りこえてほしい。

 

みずすまし9号(平成23年6月3日発行)