正法事門法華宗

桜の思い出

桜の思い出といっても特別な記憶はない。
ただ、二十二歳のときに無辺行日勇猊下に師事して、
妙法寺行堂に参籠した頃の出来事がある。
当時、仮の本堂となっていた行堂は暗く古びていたが、
この行堂からは境内の坂道の横に桜並木が見えた。
春になると愛らしい花をつける桜たちは、
つらい心を癒やしてくれる天の童女であった。

ある春、その坂道の両脇に石段をつくることになり、
猊下の陣頭指揮のもと、
朝早くから夜遅くまで同僚との作業がつづいていた。
「今日も庭仕事か……」
私は読経がしたくて衣をぬぐのが苦痛になっていた。
左右、それぞれ三十三段の工事は、
石を運ぶことから始まり、
一個一個、水糸と水平器で高さを調整し、
一段ずつ仕上げていく根気を要する仕事であった。
ある日、石が不足していたので、
猊下は新しい石を持ってくるよう石屋に注文された。
「石が来るまで、
君たちはひとまず食事を済ませなさい」と、
お昼の休憩に入った。
現場にもどると、
猊下は埋もれた古い石を一生懸命に掘り起こされていた。
そして私たちを見ると、
流れる額の汗をぬぐいながらどっかと腰を下ろして、
法話をしてくださった。
「君たちが昼食をしているとき新しい石が来たので、
この古い石はこのまま埋めてしまおうと思ったのだが、
桜の木が『使ってあげてください』と言っている気がした。
桜は私の気持ちを知っていたのかもしれないね」

木と会話ができるのかと桜を見上げていると、
猊下はなおも言葉を継がれた。
「新しい石が来たのだから、
形も悪く、種類もちがう古い石は
埋めたままでかまわないのかもしれない。
しかし、私は桜の木の言葉を考えた。
もし埋もれたままにして新しい石を使うなら、
出来の悪い弟子は放っておいて、
伸びる弟子だけを育てようとする行為に
つながるのではないかと。
古い石たちがここにいるのも天縁なら、
修行が進まないで悩んでいる君たちも、
仏縁によって集まっている。
だから、立派に育て上げ、
活かしてあげることが師匠としての使命だと反省した。
みんな顔かたちはちがうが、
天はそれぞれが役割を果たすべき個性を与えた。
その生まれ合わせた個性の美を活かすという一つが
人生の全てではないだろうか。
一つにして全て、
全てにして一つの自分を発揮することが修行の目的なのだ。
君たちは作業ばかりで疲れているだろうが、
自分の心と常に対峙していると、
何気ない自然から学ぶことがある。
目に見えない力から諭してもらうこともある。
作務と修行を切り離して考えてはいけない。
庭師が庭の仕事をするのと、
法師が庭の作業をするのは自ずとちがうはずだ。
経文をどれほど読もうと、
どれほど水をかぶろうと、
悟りにつながらない修行は無意味ではないか。
釈尊のような覚者になろうと望むならば、
何物からも学び取る求道心と
謙虚なる心がなければならぬ」
猊下は立ち上がられると、
掘り起こした石を自ら据えていかれた。

あれから十三年目にして私は猊下を失った。
葬儀を終えたばかりの二月、
雪をかきわけて本堂の裏に登ったとき、
白雪に輝く天山が言った。
「おれは負けない。お前もがんばれ」
猊下の死は、もう一人で立ってみよという、
解放のサインかもしれないと思った。
そのとき仏は祭壇の上だけではなく、
十方世界に満ち満ちていることを悟った。
悟ろうとする者にのみ悟りは生まれ、
己を大きく成長させていくのである。
ところで、この桜並木も、
今では新しい参道の両側で、
春には参詣者の目をなごませ、
夏には涼しい木陰を提供してくれている。
みんなすっかり老木になってしまったが、
残された命を精いっぱい生きようとしている姿に、
私はいつも感動と勇気をもらう。
参道を下るときは、
猊下に告げた桜のやさしさを思い出す。
「使ってあげてください」
これからはこの桜に負けず、
愛弟子たちのために
無言の説法ができる師になれればいいと思う。

  我、始め道場に坐し、樹を観じ亦経行して、
  三・七日の中に於いて如是の事を思惟せり。
  我が所得の智慧は微妙にして最も第一なり
            『法華経方便品』

 

みずすまし24号(平成27年3月3日発行)

 

みずすまし24号表紙

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