正法事門法華宗

思い変える力をもとう

本誌前号の「こころを見つめる」(考えなくてよい事は考えない)
を読んだ。
執筆者・森熊太郎さんの伴侶は、
脳出血で生死をさまよう重篤な状態に陥り、
半身不随になられたという。
今は自宅生活に復帰されているらしいが、
半身麻痺に加え、失語症もあり、
車椅子生活と記されていた。
わたしは彼女と何度か会ったことがある。
気丈で明るく、料理がとても上手で、
人をもてなすことが好きなように見えた。
気丈で明るくやさしい人だった。
彼にとって、
かけがえのないパートナーだったから、
介護を続けてきた二年間は、
暗く冷たいトンネルのような状態であったにちがいない。
しかし、彼は語っている。
「右側はしばらくお休みだけど、
左手でなんでもできる。よかったよ」
起こってしまったことを悔やまず、
明日の希望へ導こうとするやさしさに感動した。
彼の一つの総括。
考えてどうにかなるものならいくらでも考えるが、
考えてどうにもならないものがある。
これは考え悩みぬいたあげくの受容であろうが、
仏教でいう「恬安憺怕」という境地である。
他人には分からないつらさがあるけれども、
マイナスなことばかり考えていても苦しみしかない。
彼は思い変えることによって
悲しみを乗り越えた。

思い変える力はあらゆる局面に求められる。
失恋したり、
家族を失ったり、
夢に挫折したり、
人間関係のトラブルもあれば、
求めて得られない苦しみもある。
希望に溢れた青春は瞬く間に過ぎ去り、
人生は厳しい闘いを強いられるが、
絶望に沈んでばかりはいられない。
運命は自分の力によってひらかねばならない。

釈尊は王子であったころ、
何不自由ない王宮生活を送られたが、
どこを探しても生きる喜びは見当たらず、
財宝も地位も名誉もむなしい対象でしかなかった。
生老病死という人生の四苦を観じて出家し、
一本の菩提樹の下で悟りをひらかれた。
自然の生命は動かしがたい宇宙の生命に生かされている。
酷暑であろうと豪雨であろうと、
あるがままに受け容れざるを得ない。
釈尊は草木のしなやかな強さに着眼し、
千々に乱れる己の悪法の想念を見つめ、
悲や苦に沈ませる悪魔を降伏させられた。
それは正しく思い変える心の法であった。
心にはさまざまな思いが起こってくる。
はらわたが煮えくり返るような憎しみ、
やり場のない悲しみ、
妖しい欲望が湧き立つこともある。
地底に沈んで牙を研ぐこともあれば、
天女のようにやさしくなることもある。
怒り、妬み、憎しみは魔心、
慈悲、智慧は仏心。
心は魔心と仏心がしのぎを削るが、
その闘いに勝利することによってのみ、
平安を勝ち取れると教えられている。

苦を生じないためには思い変えるしかない。
困難に打ち勝つ力を生み出す以外にない。
マイナスの想念から自分を解放するしかない。
思うようにならない人生の現実を嘆くよりも、
気持ちを楽にする法を身につけると、
心はずっと楽になる。
釈尊は虚無と絶望に沈ませる己の心を統一して、
安穏の境地に達せられた。

考えてどうにもならないものがある。
自分が思うように運ぶ物事はひとつもない。
どうにもならないものに腹を立てたり、
思うようにならない人の心に不満を抱いたり、
執着の心が怒りやイライラを招く。
その悪法こそ悪魔魔民である。
矛盾や不合理はこの世の習い。
理屈の前に生き抜くことが大切なのである。

わたしも若い頃はあれこれ迷い、
つまらぬことをごちゃごちゃ考えた。
周囲の評価を気にしたり、
失敗の責任を人に転嫁したり、
自分をいじめたり、
苦しい青春時代であったが、
しだいに思い変える力が身についた。
「失敗? 他人の評価などどうでもいい」
「恥? みんな人のことを笑っている暇はないんだよ」
「劣等感? 自分を過信する人間よりマシだよ」
「不平不満? 自分が思うようにいくものか」
苦しみは他人によってもたらされるのではない。
自分が苦しむように受け止めたのである。
知覚と感情の接点に正しい思い癖をつける、
それが苦にとらわれた境地からの解脱につながる。
わたしは釈尊によって救われた。

気持ちは自分の受け止め方でどうにでも変えられる。
心が乱れるときは己の心を観想すればいい。
ワンパターン化した思考回路になっていないか、
それは自我の癖ではないかと反省すると、
「また、お前かよ」と気づきやすくなる。
自分を客観的にながめるうちに、
暗い気分もけっこう晴らすことができる。
自分を卑下する劣等感も、
のぼせ上がる過信もなくなり、
力みや気負いも薄れ、
思い込みから離れることもできる。
すべては小さなことだと思い変えることもできる。
不安の種やむかつく材料なんてどこにも転がっている。
潔癖症。
完璧主義。
案外そんなところに苦しみの原因がある。

いま、
人間関係の悩みが急増しているという。
正しい理屈が通らない、
言えば悪口を叩かれ
いじめに遭うこともある。
この世はドブ池のようなものである。
濁りがいいわけではない。
大勢が集まれば濁るのである。
けれども濁り、憎しみ、争いがあればこそ、
そこからもつれ合いながら浮かび上がってくるものがある。
濁りの中から清いものが芽を吹き、
憎しみの中から許す心が起こり、
争いの中から和を願う心が生まれ、
邪の中から正しさが出てくる。
濁り、憎しみ、争いが媒介となって、
いつか、ほんとうのものが浮かび上がってくる。
それを信じられたら苦しみも半減する。

時々わたしは、友人を見舞いに行く。
彼は両親も奥さんも失って天涯孤独。
その上、脳梗塞の後遺症がある。
老人ホームを勧めるのだが、
集団生活は苦手だとその気になれないでいる。
先日、彼はふっとつぶやいた。
「おれはいったいどんな死に方をするのかなあ……」
わたしは答えた。
「勝負が早いのは心不全か脳溢血。急死がいい」
「そのうち髑髏になっちゃっているかもね」
「髑髏でもミイラでもいいじゃないか。
好きなバラを口にくわえさせて、
葬儀をしてあげるから心配するな」
そう言うと、手をたたいて笑った。
老いるにしたがって死の不安も増すけれども、
だれも死に方の選択はできない。
恥じない心があれば何もこわくない。
心を清く、軽くしておけば昇天も早い。
死は肉体の現象であって本質ではない。
先のことを思い煩うよりも、
日々、苦しむ思考回路を遮断して、
楽しく有意義に過ごすことを考えたい。
思い変えるということは、
気持ちを楽にする不可欠な修復作業。
人間は自分を励ます歌を唄いながら、
宙に還る動物なのかもしれない。

 

みずすまし14号(平成24年9月3日発行)

 

みずすまし14号表紙

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