まあいいか。仕方がない

50号タイトル

よくある話だが、聞いてほしい。

 先日、お昼時のことである。孫にアイスを買ってやろうとコンビニに出かけたら長い行列。

レジが故障しているようだった。隣のレジに移ったが、今度は店員さんの対応が遅い。そのうち前列の女性客が身を乗り出して言った。

 「あなた、とろいわね。いつまで待たせるつもりよ!」

 ちょっとこわもての中年女性。店員さんは入力をまちがえて焦っていた。

 これは時間がかかりそうだとあきらめ、別の店で買うことにして外へ出た。

 正直に言って、私は昔からせっかちなタイプである。

 前を走る車のノロノロ運転にはイライラさせられたし、指示したことをすぐにやらない弟子も叱ってきた。「お寺はゆったりした毎日でしょう」とおっしゃる人もいたが、寺は行事をはじめ何かと忙しく、食事も短時間で済ませなければならなかった。

 父の布教のお供で唐津から福岡へ車を運転したとき、スピード違反で捕まったことがあった。「飛ばせ」と言われるものだから、スピードを出したところ、行きと帰りに警察のレーダーに引っかかってしまった。

 「ちょっと免許証を持って降りてきてください」

 車から降りて警察官と向き合うと、私は文句を言った。

 「こんな曲線道路でレーダーを仕掛けるとは意地が悪い」

 口論になっていると父が降りてきて、私を注意した。

 「おまえが悪い。そんな言い方をするな!」

 しかし、その後は父が警察官とやり合っていた。

 「そこまで言わなくても……」と、逆にはらはらしたことを覚えている。

 自分のせっかちさや短気というものを、親の遺伝や時間のせいにするつもりはないのだが、忙しい環境にいると人間はこんなものである。

 ひとさまには「ものごとは自分が思うようにはならない」と説き聞かせるものの、先述したコンビニの一件で、私にもまだイライラの残滓があることに気づかされた。落ち着いて考えると、レジだって故障することはあるし、慣れない仕事ならばはかどらないこともある。ただ、それはゆったりとしたときにできる反省であって、イライラ、ムカムカしたときはとてもそんなふうには思えないのである。それは、状況に応じて生じる感情が心の運転手になっているからだろう。

 そんな私だから、本誌の「怒り」というテーマに関しては「カモン!」と言いたいところであるが、これをコントロールするとなると自信はない。

 一口に怒りといっても、心の模様はさまざまである。激高は怒りの最たるものであるが、表に出ないイライラやムカムカも怒りの範疇に入る。また、怒りの原因もさまざまである。正論であっても言葉のトーンで腹が立つこともある。長い年月を共に暮らし、さまざまな困難を乗り越えてきた夫婦でさえも、相手の言い方次第で腹が立つ。その結果、無視やダンマリ戦術にかかってご飯もつくってもらえず、洗濯もしてもらえず、ヘトヘト、ヨレヨレになってしまう男性もいるが、往々にして怒りは口論になりやすい。

 私は怒りの言葉づかいのタイプを次の四つに分類している。

① 火炎放射器タイプ

  相手を追い込み、怒りの火炎で酸欠状態にして焼き尽くすような言い方。

② ロケットランチャータイプ

  相手を一発で破壊するような言い方。

③ 六七式汎用機関銃タイプ

  相手に反撃の余裕を与えず打ちまくるような言い方。

④ 三八式歩兵銃タイプ

  相手の攻撃に応じて反撃するような言い方。

 もちろん、怒りは急に起こるものではなく、鬱積した感情の爆発でもある。自分が過去のことをあまり覚えていなくても、相手は「いつ、どういうとき、こう言った」と、はっきり記憶している場合がある。不用意な物言いをしようものなら、鬱積した感情を抱えている相手の火薬に火がつき、思いがけない反撃を食らうことがある。自分が三八式歩兵銃タイプなら、たちまち穴蔵に追い込まれてしまうことになりかねない。

 最近のことであるが、弟子に対して我慢していた気持ちが爆発したことがあった。最後はわかってくれたので怒りを収めたが、ロケットランチャーのような言い方になってしまっていた。私は反省し「未熟だからこそ修行に来ているのだし、それを教えるのは私の責任である」と、思い直した。

 怒ってみたところで、一文の得にもならない。血圧は急上昇するし、相手のモチベーションを落とすことにもなりかねない。針小棒大に言いふらされ、あらぬ誤解を受けることもある。

 冷静に考えてみると、日常に起こることのほとんどは、怒る必要のない些細な出来事ばかりなのである。それを受け流すことができればサラリと済むのだが、そのことは百も承知でムカムカ虫が動き始めるのである。ムカムカ程度ならまだいい。それを行動に出そうものなら悲劇に発展することもある。

 代表的な事例として『忠臣蔵』がある。江戸時代、赤穂藩の藩主・浅野内匠頭は、吉良上野介のワイロの要求を拒んだため陰険ないじめを受けたことから、殿中松の廊下で脇差を抜いて吉良の眉間を斬りつけた。その結果、赤穂藩は断絶、浅野は切腹、家臣は離散してしまった。残った四十七士は吉良の首を取ったけれども、最後はみんな切腹して果ててしまった。

 そもそも浅野は天皇の勅使の接待係である「勅使饗応役」を仰せつかっていた。しかし、浅野は玄関の式台で勅使を迎えるべきか、それとも式台の下で迎えるべきか儀礼作法がわからなかったため尋ねたところ、吉良は次のように答えたという。

 「今頃になって左様なことを訊かれるとはもってのほか。その程度の御作法は常日頃からお心がけなさるべきもの。にわかに常識的な風習をお尋ねなさるとは笑止千万」

 そう言って、そばにいた江戸城留守居番の梶川与惣兵衛に浅野の悪口を並べ立てたことが引き金となり、浅野の堪忍袋の緒が切れた。

 これには伏線があった。当時、勅使饗応役が殿中の作法を指導する指南役に、謝礼として付け届けをするのは常識的な風習であった。しかし、赤穂藩の財政は苦しく、家臣が気を利かせて相場より低い額の付け届けを吉良に届けていた。その倹約が仇になったようである。もし、付け届けの額が少ないことに腹を立てていじめたとするなら吉良も悪いが、勅使饗応役という重責にありながら刃傷に及んだ浅野はもとより責められても仕方がない。

 ここで気をつけなければならないのは、ムカムカが行動となって表に出た場合、身の破滅を招くということである。いつだったか上司の一言に腹を立てて左遷されたあげく、会社をクビになった人がいた。彼は真面目な性格で体育会系出身の激情タイプであった。あるとき、同僚が上司から激しく叱られる様子に堪えられず、つかつかと歩み寄ると、机の上にあった書類バインダーで上司の頭をぶったというのである。

 義といえば義、勇気といえば勇気ではある。脇差で眉間を斬りつけた浅野内匠頭に比べれば、バインダーなんてかわいいものである。だが、問題は行動に出してしまったところにある。

 「すべて私の短気が招いたことです。家族を生活苦に追い込んだことは申し訳なかったと思っています」

 彼はそう反省していた。

 仏教では「瞋・貪・痴」といって、その中の「瞋」を「怒り」と解釈している。よく怒る人の心は、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪道に住んでいる状態とされている。お釈迦さまのもとに集まってきたお弟子さんたちは欲や怒りから逃れようとして入門してきた人も少なくなかった。

 お釈迦さまが教えられたことは、基本的に世の中も人も自分が望むようにはならないということであった。また、執着が諸苦を引き起こす根源であると強調された。要するに、平穏をこわすものは自分の心にあるということである。

 そこで、お弟子さんたちはお釈迦さまのお説法を熱心に聴いたり瞑想をしたりして、自己の心の動きを見つめた。不満や怒りを起こさせる意識の根底に入って、清浄で落ち着いた境地を求めた。

 怒りのナベ底には「見下されたくない」、「わかってほしい」という自己防衛本能や承認欲求などがある。そもそも怒りは大切なものが奪われそうになったり、目的を阻害されたり、むやみに自分の領域に入ってきたりするものに対する、本能的な守りのエネルギーだったらしい。

 しかし、怒りという本能は理性ではなかなか抑えられない。本能と理性の間には、シベリアとハワイくらいに距離があって、コントロールがむずかしいのである。だから、仏教は私たちが外部のものを知覚するとき、思考や感情になる一歩手前で思い直す訓練を教えている。そのファーストステップは、自分の心の癖に気づくことにある。自分の癖に気づくことで、感情に振り回されるのではなく、感情を自在に動かせる人間になれるということである。

 繰り返すが、日常に起こることのほとんどは、怒る必要のない些細な出来事ばかりである。だから、期待しないであきらめたり、受け流したりできれば怒ることはないのだ。他人と自分の考え方はちがうし、そもそも自分の思いどおりになることなどほとんどない。

 お釈迦さまがおっしゃっているように、「世の中も人も自分が望むようにはならない」と思い直すことができればいいが、心を汚さず穏やかな日々でありたいと願いつつ、灰になるまであきらめがつかないのが私を含めて人間なのかもしれない。だから、私はこう受け流すことにしている。

 「まあいいか。仕方がない」

みずすまし50号(令和3年9月3日発行)

みずすまし50号表紙

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