「豆腐」のように生きる

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人間というのは、試行錯誤を繰り返しながら成長する動物のようである。

 心は生まれ変わるたびに成熟する。失敗もまた決して無駄ではない。生きながらにして生まれ変わるチャンスが人生には何度も訪れる。そこに生きる妙味があるのだから、己の未熟さにいちいち気を落とす必要はない。

 私も試行錯誤を繰り返しながら生きてきた。子どものころは謙虚な性格だったのだが、宗門を継承してトップに立つと、リーダーシップを発揮しようと思うあまり、片意地を張り通したこともあった。大学時代に武道をやっていたせいかもしれないが、父の言葉もあった。

 「不言実行というのは格好がよいが、組織を動かす者は有言実行がいい。そうでなければ部下は理解できないし、支えることもできない」

 いつしか私は有言実行を旨とするようになっていた。

 父が急逝した当時、父を敬愛していた人びとは痛恨の悲しみに沈んでいた。私が後継者になったときは、みんなが不安を抱いていた。そんななか、いくら有言実行しようと、信頼がなければ人は動かないというのに、周囲を顧みることもなく、私は大きなプロジェクトに乗り出した。

 父は亡くなる前に、スリランカのテーラワーダ※から名誉説法師の称号を受けていた。代理として授賞式に出向いたことで、私にはたくさんの友人ができた。受賞の橋渡しをしてくれた若いスリランカ僧も弟子になってくれた。

 あのころの私には〝大乗仏教と小乗仏教の融合〟という念願があった。二千年の長きにわたってつづく分裂を修復したいという一念から起こったものだった。「金満日本の仏教界」と見なしていたテーラワーダの誤解を解いて、現代社会の精神復興のために共に立ち上がりたいと考えていた。

 無い知恵を絞り、まず現地に『日本スリランカ・ウェルフェア・アソシエーション』という孤児院をつくり、段階的に仏教統一の活動を進めることにした。若さゆえの情熱と行動力もあって、私のなかに不可能という壁はなかった。現地の大臣を動かして敷地を購入し、スリランカ人の弟子を代表者に委任した。現地スタッフも決まり、法人認証の申請事務手続きも目前となっていた。

 ところが、弟子と現地スタッフの間にトラブルが起こった。弟子は完全にやる気を失っていた。問題解決のため幾度となく開いた役員会議は、賛否両論に分かれた。代表者を変えれば事業継続は可能だったが、私の意志を担う者はなかった。

 私にも引き下がれない意地があった。しかし、最終的には撤退を決めた。あのまま強行していれば、今ごろ、どうなっていたことだろう。有言実行も、メンツにこだわると取り返しがつかない事態を招く。

 『サザエの失敗』という逸話がある。

 ある日、魚たちが「敵からの攻撃を避ける方法」と題して会議を開いた。

 まず、アラカブが言った。

 「わたしは身体が小さいので岩場に隠れることはできるけど、岩から出るときが怖い。ウツボさんに狙われるから」

 タコが言った。

 「ボクはスミを吐いて敵の目をくらますことができるけど、待ち伏せしているウツボさんに気づけなくて捕まってしまう」

 次にアンコウが言った。

 「あっしが怖いのはサメさんだね。ご覧のとおり身体は大きいけど、泳ぐのが遅いのですぐに食われてしまう」

 彼らはお互いに処世術のようなことを話し合い、「お互い気をつけよう」とあいづちを打った。すると、それを聞いていたサザエが言った。

 「オイラは逃げないよ。君たちのように自由には泳げないけど、オイラのような硬いものは誰も食べないし、どんな敵が来てもすぐにピタリとフタをするから」

 そのとき議場に誰かが近づく気配がして、みんないっせいに逃げ出した。ところが、サザエは自慢した手前、逃げ出すわけもいかず、その場にじっとしていた。しばらくしてフタをあけたら、魚屋の店頭で「一個二百円」という値札がつけられていた。いったん口に出すと後に引けなくなり、身を滅ぼすことがあるという話である。

 試行錯誤が人生の常といっても、判断を見誤った有言実行にはリスクがある。あの時点で撤退を決められなかったなら、私もサザエのようになっていたかもしれない。

 短慮だった私は人の上に立つ器ではなかった。宗門を継承してたくさんの事業を展開してきたが、あっちこっちにぶつかりながら、かろうじて生きてきたように思う。生きていくなかで生まれ変わらざるを得なくなることがたくさんあった。

 今思うと、父は私を育てるべく、いろんな角度から後継者としての道を教えようとしていたのだろう。そう言えば、一緒にすき焼きを食べていたときの思い出がある。

 「豆腐は柔らかいし、うまい。お年寄りから子どもまでみんなに好まれる。豆腐のような人間を徳人というのだろうなあ」

 意地っ張りで短慮な私に、豆腐のような人間性を教えたかったにちがいない。

 豆腐はすき焼きには欠かせない。牛肉がすき焼きの王様とするなら、コトコト煮られながら牛肉の横でプヨプヨと軽く踊っている豆腐の姿は、王様とダンスをしている王妃のような気品がある。

 豆腐には協調性、融通性もある。鍋のなかで真っ白な顔を見せて、ネギの青さを引き立てている。すき焼きだけではなく、味噌汁の具としても、油で揚げても、白あえや野菜とコラボさせたあんかけでも、豆腐はどんな相手にもぴたりと身を添わせることができる。

 たしかに、四角四面の仏頂面ではあるけれども、柔らかく柔軟性を保ち、身持ちを崩さない程度に、適度なしまりをもっている。舞台俳優の脇役のような顔つきをしながら、どこか達人の面影さえ漂わせている。また、煮詰められて濃くなっていくスープに浮く豆腐の、どこか遠慮がちな表情もよい。

 

 今思えば、父は私の気性を探っていたのかもしれない。「おい、将棋をしよう」ともちかけ、その一方で私の攻め方、引き方を読んでいたようだ。攻められて逃げる私の王将を見て、「そっちじゃない」と逃げ方を教えたこともあった。私の反応をさぐり、私を育てようとしたにちがいない。理屈で人を動かそうとしたとき、「余計なことを言うな」と、厳しく私を叱責したのも、この豆腐のようにみんなから愛され、期待される人間に育てようとしていたからにちがいない。結局、私の有言実行は、我が身の不徳を隠すための強がりにすぎなかった。

 若いころの写真を見て、厳しい目つきをしている自分に嫌になることがある。だが最近の写真を見て、笑顔で受け入れられるのはなぜだ

ろう。それは、私が生きながらにして生まれ変わってきたからではないか。

 ギスギス反応することが少なくなった。思うようにならないことがあっても焦らないようになった。言いすぎたときは、「いけなかったなあ」と反省するようになった。神経質なほどの計画性も緩んできた。なるようにしかならない、といった脱落感である。酸いも甘いも噛み分けた経験を経て到達した境地であろうか。

 その点、豆腐は初めから控えめで柔らかい。昔から変わることのないソフトなポエムがある。豆腐は煮られ、冷やされ、重い圧力をかけられ、細かい目の袋で絞られるなど、さんざん苦労をしている。黄色い大豆が白くなるまでの過程を考えてみても、彼らは試行錯誤の末に生まれ変わっていると言ってよい。

 今では、「大変なご苦労をされましたね」と言ってくれる人もいる。若くして父が他界したので精進してきたという自負はある。しかし、苦労したという感覚はない。むしろ周囲の熱い期待に煮詰められながら、あっちにぶつかり、こっちにつまずきつつ、いろいろなことを学んできた人生の妙味に喜びを覚えている。

 主役であろうと脇役であろうと、人間というのは、試行錯誤を繰り返しながら成長する動物なのだ。頭がいいから人がついてくるとはかぎらない。技術や能力が人を動かすわけではない。いくら立派なことを言っても協調性がなければ孤立する。理知的であればあるほど、他人を厳しく見ることもある。むしろ、どんな相手にもぴたりと身を添わせる豆腐のような凡庸さが人との関係を円滑にする。

 人間がこの世に生まれた目的は魂の向上にある。生まれ変わるのは心の成熟のためなのだから、「ダメ」で死に、「ヨシ」で生まれ、これをつづけながら向上していくのである。

 私には持ち時間が少なくなってきた。いつになったら主役を譲って豆腐のような脇役になれるのか。そうは言っても、半ば溶けかけた豆腐のように人生を終えたくはない。目下、鍋のなかで揺らいでいるといった感覚である。

みずすまし49号(令和3年6月3日発行)

みずすまし49号表紙

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